逃げる話。 その1
前回の記事では、逃げることの大切さを綴ってみた。
私がそのように考えるようになったきっかけはいくつかあるが、今回は不登校に関する話を紹介したい。
大学時代に受けた講義の中で、教授はこのように語っていた。
「不登校とはすなわち、
彼・彼女達が自らを守るために”逃げる”という選択をした、ということだ。
周囲に異変を知らせてくれた、その事実を無駄にしてはいけない。
学校には同じように苦しみながらも、
逃げ出すことなく我慢している子がいるのかもしれないのだから。」
目が覚める思いだった。
"逃げる"ということをこれほどまでに全肯定してくれる大人はいつぶりだろう?
私はいつから、辛いことがあっても我慢したり、立ち向かって乗り越えていかなければいけない、そうするしかない、と思い込んでいたのだろう?
別の道を選ぶ、という選択肢はいつの間に消えてしまったのだろう?
思い返してみると、成長する中で、辛いことからも逃げることなく立ち向かい物事を続けることの大切さが語られる場面は多くあった。学校でも、家でも、テレビでも、映画でも。
”継続は力なり” ”石の上にも三年”
私は、いつからかそのような価値観に囚われ、逃げずに立ち向かうことこそ目指すべき強い人の姿だと信じ込んでいた。
そんな自分自身に気づいたあの瞬間は、今でも忘れられない。
世間的に見ても、逃げないことを正とする風潮があるのではないか。どうしても私はそのように思えてならない。杞憂に過ぎないのであれば良いのだが、もしかつての私のように考えている人がいるのならば、警鐘を鳴らしたい。
自分の命以上に大切なものなんてないし、大切なものを擲ってまで、苦しみ続ける必要はない。
自分の身を守るために逃げ出して何が悪いのだろう。そのことを責める権利が一体誰にあるというのだ。
辛い時は、立ち止まってもいい。
”逃げる”ことを選択肢に入れることだけでも忘れないで欲しい。
これは私自身の経験からも感じていることだが、
辛い時にはどうやってその壁を乗り越えるかということに考えが偏ってしまう。
いわば、ずーっと真正面を向いている感覚。壁の前で思わず俯きそうになるところを必死に自分の頭を起こし、壁を見つめているような。いつのまにか、方向転換をすることも、周囲を見渡すことも”出来なく”なっている。
ただし、この時の”出来ない”は、能力として”出来ない”のではなく、やろうと考えもしていない”出来ない”に過ぎない。
だからこそ、いつだって”逃げる”ことを選択肢に入れることが出来る。
私は今、”逃げる”という選択肢に気付くきっかけになれたらいいな、と思ってこのブログを書いている。
届いてくれたら嬉しい。